2014年5月26日 (月)
命を懸けた恋・・・幾松と桂小五郎 幕末編
30年来の知己 東京の黒川さんと吉川さんと3人で、料亭「幾松」を探訪。
幾松は、明治維新の三傑の一人の桂小五郎(のちの木戸充允 長州)の恋人です。
ちなみに、三傑のあとの二人は、西郷隆盛と大久保利通です(ともに薩摩)
「幾松」にやってきました。(京都の木屋町二条下ル)
ここは長州のアジトで、討幕の拠点だったのです。
玄関には、頑丈な銅器の二重の塔があります。
新撰組などが切り込んだ時の防波堤になるそうです。
登録文化財のお座敷です。
このお座敷は吊り天井で、ひもを引くと天井が落ちてくる仕掛けです。
桂小五郎は、長州の勤王の志士のボスで、偽名を20個ももつ革命の闘士だったのです。
床の間に明治天皇と皇后がおられます。掛け軸は、木戸充允の書です。
木戸充允は、明治天皇の信頼が厚く、毛利(長州)の殿様からも可愛がられていました。
女性にはよくモテて、ともかく人望家ですね。
「幾松」の窓の外は賀茂川で、昔はうっそうと草木が生い茂り、新撰組が来ても、加茂の河原に逃げ込むと安全だったそうです。
彼は剣豪で、物騒な京都に潜んで新撰組から隠れて、志士の活動をしていましたね。
無骨な薩摩の西郷や大久保と異なり、木戸は京都の芸妓の幾松と一緒でしたね・・・
モテる男といえば、坂本龍馬もお龍って女が、彼を支えましたね・・・
左から吉川さん、黒川さん
「幾松」の主人の熱の入った講談のような説明
150年昔が、ほんの昨日のような・・・
木戸充允と幾松(のちの木戸松子夫)。ロマンを感じる写真ですね(^O^)
木戸充允は、天保4年~明治10年没。43歳で亡くなりました。
若くて大事を成し遂げたのですね。
西郷隆盛49歳で自刃、大久保利通47歳で暗殺
小生は馬齢を重ねて、ホントに恥ずかしい・・・・
書は、木戸充允の直筆です。 達筆!!
写真は明治の元勲が並びます。
佐久間象山です。
佐久間象山は弟子の吉田松陰(長州)に連座して投獄され、公武合体の開国論者で「西洋かぶれ」と危険視され、幕末(1864年)に「幾松」から50メーター先(三条通木屋町)で、53歳で暗殺されますね。(木戸は22歳のおり)
やっと料理が出てきました。
幾松の銘酒です。 乾杯!
火縄銃が壁に塗り込んでいました。 面白い!!
岩倉具視の米欧使節団(大久保利通、伊藤博文など105人)の一員として木戸は参加。
明治維新のホヤホヤの明治4-6年に、内閣の大半が2年半も海外視察に出かけました。
やはり留守中の政府は大モメして、明治10年に士族の反乱(西南戦争)になります。
病弱な木戸充允は、政府と西郷の前途に狂わしいまでに悩みながら、明治10年に病没。
明治維新の盟友=薩摩の両巨頭「西郷(賊軍)VS大久保利通(官軍)」が戦い、木戸充允とすれば、幕末・維新が走馬灯にように浮かぶ無念の最期だったでしょうね。
話は盛り上がる。
話は幕末維新から、室町・きもの業界まで多岐にわたり、議論風発・・・
酩酊して帰途につきました。
後記
私は、司馬遼太郎の大ファンで、幕末維新の躍動する時代は大好きなんです。
坂本龍馬が薩長同盟を画策し、木戸充允と西郷隆盛の合意で成立。
今日の日本を作るうえで、この「幾松」は重要な役割を果たしたのですね。
黒川さん、吉川さん、充実したひととき、ありがとうございます!!