2015年5月1日 (金)
美の大巨人「川喜田半泥子」
半泥子(はんでいし)って知っていますか?
昔の銀行のオーナー頭取で、政治家、陶芸家として「昭和の本阿弥光悦」と言われた人。
15代続く伊勢の豪商の家に、明治7年(1878年)生まれました。
(本名は、川喜田久太夫政令)
川喜田半泥子が1歳のとき、祖父と父は他界し、母は18歳であったため、その若さで未亡人となるのは不憫と実家に帰され、半泥子は祖母「政」に育てられ、2歳で家督を相続しました。
美術展「川喜田半泥子物語」は、あべのハルカス美術館で開催されました。(5月10日)
歌川広重の大伝馬街繁栄の図
川喜田久太夫商店は、寛永年間(300年前)の創業で、木綿問屋として栄えました。
祖母・政(まさ)と半泥子(写真中央の祖母と子供が半泥子)
祖母の半泥子への厳しい訓え・・・
我をほめる者は、悪魔と思うべし
我をそしるものは、善知識(仏のことば)と思え
ただ何事も、我を忘れるのが第一也
左から二番目が半泥子。そのお隣が、将来の為賀夫人
明治25年頃の学生の半泥子
中学生の頃は写真に熱中した・・その作品のひとつ
後年、油絵にも凝った
百五銀行の頭取の時の車はパッカード
彼は古典的な教養を身に着け、一方、モダンな人物で欧米文化にあこがれました。
彼は、25歳で百五銀行の取締役に就任、大正8年(41歳)~昭和20年(67歳)の26年間、頭取を務めました。
関東大震災、世界恐慌(1929年)、昭和の金融恐慌、第2次世界大戦、そして終戦まで、荒波を乗り越え、頭取として百五銀行の規模を拡大し、三重県ではダントツの優良な銀行に育てました。
現在も超優良な地銀(津市が本店)として有名です。
川喜田半泥子は、バンカーとしては超人的な働きをした大実業家でした。
彼は、34歳ころから千歳山で楽焼を試みた(彼の自画像)
彼の47歳の時の作品
古伊賀・赤焼花入
彼は、書をよくし、絵も描いた
彼は、50歳ころから、人に陶磁器を焼かすのでは飽き足らなくなり、自分で窯を作った
井戸手茶碗「渚」
銘のなぎさの水のぬるみを感じますね・・
飴釉茶碗「ゆかりの松」
松の根っこを想像し松ヤニの照りと年輪を感じますね・・
粉引茶碗「雪の曙」
なんとも少女のような可憐な茶碗です・・・
からひね会のメンバーとともに
前 金重陶陽 左から 半泥子、三輪休雪、荒川豊蔵
半泥子は、陶芸作家(人間国宝クラス)を自宅に招き、作品の評、古い器をみたりして陶芸に打ち込み、芸術家のリーダーとなった。
陶芸に励む半泥子(自画像)
粉引茶碗「たつた川」
彼の古典の教養深さを感じる・・
「狛犬」
彼は遊び心と探究心に溢れていました・・
伊賀水指{欲袋}
彼はユーモアに満ち、諧謔精神があり、なんでも面白がった・・・
この展示会、私の尊敬する社長に強く進められハルカスへ鑑賞に行きました。
鑑賞後、サンライズ出版の岩根順子社長に、「半泥子を見に行ったよ」といったら、彼女は顔を緩めて、「私、人生で二人大好きな人がいる中の一人が半泥子・・・」と言いました。
半泥子はもてるんだ・・って実感しました。
後記
私の祖父(四代目塚本喜左衛門)は明治7年生まれで、半泥子(明治11年生まれ)とは4歳違い。私の祖父は趣味を好み明治と大正時代の気風を一杯吸い込みました。
半泥子は16代目の川喜田久太夫として、懸命に仕事に生き、また、無茶(ありのまま)を愛した偉大な趣味人でした。・・・拙宅とは、月とスッポンですが・・・
私の学生の頃、討議の進め方にKJ法が流行し、私もその愛用者でした。
発案者は川喜田次郎(KJ)先生で、半泥子さんの次男坊さんでした。
縁は不思議ですね。
追記
ご興味ある方は、「川喜田半泥子物語」としえ、あべのハルカス16階にあるハルカス美術館で5月10日(日)まで開催されています。(午前10~午後6時、平日は午後8時まで 大人1,200円)
この写真は、「川喜田半泥子物語」より引用させて頂きました。素晴らしい本です。