2016年4月4日 (月)
珠玉の住宅、聴竹居(1928年築)
京都府大山崎町の天王山の麓、「聴竹居」を訪問しました。
この地は、豊臣秀吉と明智光秀が天下分け目の合戦をした地です。
「聴竹居」は、藤井厚二先生(1888-1938年)の1928年の作品です。
シンプルで素敵な「客間」。天井の三角のあかりも客間と床の間を同時に照しています。
「縁側」と称する明るい部屋は柱がほとんどなく、ガラスの桟(さん)や角にはデザイン的な配慮がされています。(上は右側、下は左側)
藤井厚二先生は広島生まれで、大正2年に東大の建築科を卒業し竹中工務店に勤め、朝日新聞大阪本社を設計し、32歳でヨーロッパに留学、38歳で京大の教授になりました。
「其の国を代表する建築は住宅建築である」の名言を残し多くの実験住宅を作りました。
聴竹居の「食事室」です。
竹風を聴きながら暮らす住居で、「聴竹居」と名付けられました。
90年も昔に、環境、文化をこんなに愛して作られた建築は稀有ですね。
実は、3年前に天皇皇后両陛下が、「聴竹居」を訪問されたそうです。
とりわけ、皇后さまがとてもお気に召されたそうです。(松隈さん談)
天井のあかりですが、桟に特徴がありますね。
「勉強部屋」だそうで、子供の机が3つあります。
住宅内の夏の空気の流れをよく考えられていて、床下の空気を地下の空気管を通して屋敷内に導きいれています。これで、空気の温度は3度下がるのだそうです。
床下の空気の導入口です。
藤井厚二先生は優れた趣味人で、茶道、華道、陶芸などに通じ、邸内に窯もありました。
日本で初めてオペルを購入し、聴竹居から京大へ通っていたモダンボーイで、色々な建築設計と弟子を育て49歳で早逝しました。
聴竹居の庭で記念撮影です。左から松隈さん、岸本ご夫妻、小生です。
実は、大阪の岸本さんは竹中工務店の松隈さんと旧知で、松隈章さんは聴竹居倶楽部(保存団体)代表で有名な建築家であり、ジェームス邸(神戸)の保存などにも関わられている活動家でもあります。
今回は松隈さんにご案内頂きました。
◆すぐ近くの大山崎山荘(アサヒビール美術館)を4人で訪問しました。
大山崎山荘の栖霞楼(左)と美術館の一部(右)
加賀正太郎(1888-1954年)が大山崎山荘を建築するとき、最初にこの物見塔(栖霞楼)を建て、塔から山荘建築の指揮をしたそうです。
大山崎山荘から見た三川合流(桂川、宇治川、木津川が合流して淀川になる)の威容
木津川と宇治川を隔てる「背割堤」(1,4キロ)がみえます。
「全国3位、京都1位」の桜の名所だそうです。
山荘の公園のウサギのブロンズ像
◆大山崎山荘のすぐ前が「生々居」です。
昨年4月に加賀家より「生々居」を小生はお引き受けしました。
加賀さんの写真アルバムには、加賀正太郎さん、竹鶴政孝さん(マッサン)、田中太助さん(田中太郎さんの父君)らが登場します。
岸本さんも加賀家とは親戚だそうで、昔から大阪の実業界はつながっているのですね。
後記
「生々居」から歩いて3分間に「聴竹居」がありましたが、このたび初めて見学しました。
藤井厚二先生の90年前のモダンな日本建築に出会い、未来への先見性、文化へのこだわり、家族と客人の有り方をトコトン追及された珠玉の住宅「聴竹居」は味わい深く、いつまでも見とれていました。
藤井厚二先生と同じ年(1888年)に生まれた加賀正太郎さんは大正・昭和の風雲児でニッカウイスキーの設立など多くに新産業の創生にかかわり、趣味(ゴルフ・1923年に名門・茨城CCを創立、有名な蘭の花の栽培の草分け)は深く、すさまじいリベラルアーツ(教養)の持ち主です。
大正―昭和時代に活躍した偉人にまみえて幸せなひとときでした。