2019年10月28日 (月)
天下分け目の天王山に登りました。!(^^)!
天正10年(1582年)、本能寺で信長が殺され(6月2日)、秀吉が中国から大返しで反攻し、
光秀が迎え撃った山崎の合戦(6月13日)となりました。
秀吉は、6月4日に毛利と和議を結び、7日には姫路城、11日には尼崎に到着し
13日、秀吉vs光秀との戦いとなり、即日決戦で地滑り的な勝利を得ました。
先週の祝日(即位の日)、天下分け目の天王山に登ろうと、JR山崎駅に5名の有志が集合しました。
左から御船さんご夫妻、辻先生、庄司さんです。
まず、天王山の一角、宝積寺(通称、宝寺)に行きました。
この三重塔(重文)、秀吉が一夜で作った伝説があります。
天王山の旗立ての松、ここに秀吉は自軍の旗を立て、士気を鼓舞したそうです。
素晴らしい見晴らしで、三川合流(木津川、宇治川、桂川)でここから淀川となります。
山崎の合戦(天王山)の模様が陶板で描かれています。
山崎の聖天さんです。
JR山崎駅の前の山崎八幡宮の油の神様です。
美濃の斎藤道三(織田信長の義理の父)が油売りの商人として有名ですが、
ここが油座の元締めで、この神社が油を売る許可を与えていました・・・
実は、JR山崎駅の対面に妙喜庵というお寺があり、ここに国宝の茶室「待庵」(千利休の作)があります。
この辺りは、戦国時代のヒーローのそろい踏みですね(^O^)
この煉瓦のトンネル(登録文化財)を越えると、大山崎山荘です。
アサヒビール大山崎山荘美術館です。
加賀正太郎(1888-1954)は大阪の実業家に生まれ、父が早逝し中学生の時に当主となり、
東京商大(現・一橋大学)から英国に留学をして大正時代から青年実業家として活躍し、昭和初期
28歳でこの山荘を建てニッカの創立などに投資をしました。
加賀氏は晩年に病気をし、山本為三郎(1893-1966、アサヒビールの創業者)へニッカを託しました。
さらに後年、大山崎山荘が売りに出たとき、アサヒビール(当時の樋口社長)が山荘を引き受け、
山本為三郎の民芸のコレクション(バーナードリーチ、河井寛次郎など)を中心にして
アサヒビール大山崎山荘美術館となりました。
美術館のコレクションのモネの睡蓮です。(カタログより)
美術館は12名の参加者に膨らみ、皆で記念撮影をしました。
今日の仲間は、同窓会が母校への提供講座(商経講座)のボランティアの中心人物、
下崎先生(商学部の前教授)、庄司さん、橋本さん(経済学部出身)、伊東さんなどの人達です。
その後、大山崎山荘の隣地の生々居(拙宅)にきました。
この山小屋(生々居)は、加賀正太郎が90年ほど前に建て、4年前に縁があって小生が引き受けました。
このランプは家内の旧知の石田亘(わたる)先生のパート・ド・ヴェール(ガラス)の作品です。
生々居で、食事会を14名で楽しみました。
中華料理の出張シェフが来て、その場で調理をしてくれ出来立てで美味しく、
仲間同士の会費制でみな気楽に舌鼓を打ちました。
食後のひととき・・・・
庄司さんの父娘のデュエットです。
橋本さんがアイパッドでピアノ演奏
大いに盛り上がりたのしいひとときでした!(^^)!
仲間内で勝手気ままに天王山、美術館、食事会・・と好きなタイミングで参加し
自由で気楽なパーティーで至福の時でした・・・
ありがとうございました。