喜左衛門ブログ:President Blog

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2020年6月2日 (火)

50年目の真実・・・「三島由紀夫と東大全共闘」

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先週の土曜日、懐かしい映画を見ました・・・「三島由紀夫と東大全共闘」です。

1969年1月の東大の安田講堂・炎上事件は、私(1948年生れ)の学生2回生の3学期でした。
学生運動が先鋭化し、暴力革命を訴え東大の安田講堂を占拠し、火炎瓶が飛び交う中、機動隊は東大の時計台に突入しました。
この時、逮捕された633人の学生のうち、東大生は38名だけで大部分は他大学のオルグの学生たちで、東大生は安全圏にいて「戦力保存」とうそぶいたようです。
学生運動は全国の大学へ広まり、小生の母校も全共闘が8か月間大学を占拠しました。
まず医学部が封鎖解除され、ついに1969年10月4日、大阪市立大学の本館時計台へ機動隊が突入し多くの市大生が逮捕されました。
小生は大学近くに下宿しており、当日は時計台をヘリコプターが何機も舞い、級友や多くの学生が連行されていくのを悔しく見てました。
小生は1-2回生まではデモ参加学生でしたが、急速に学生運動は先鋭化し、我々はクラブ、ゼミ活動に重点を移しました。
その後、全共闘運動は地下運動化し、1970年3月に赤軍派による「よど号ハイジャック事件」(北朝鮮へ亡命)が起こり、首謀者の田宮高麿(北朝鮮で不審死)は我々の大学の先輩でした。
赤軍派の指名手配の写真に、森恒夫など見知った顔がいるのが自慢という錯誤した学生時代でした。
その年11月には連合赤軍の「あさま山荘事件」が起こり、内ゲバ(セクト間の内部抗争)の続く学生運動は自壊しました。
この陰惨な事件には、同窓が逮捕されなんともやり切れない結末でした。
大学封鎖で授業は無く、ゼミ教授の自宅や会館、近江・五個荘の拙宅でゼミ合宿など思い出が尽きません。
翌年(1971年)3月の卒業式は中止となり、小生は学生部に卒業証書をもらいに行き、お粗末な我が青春は終了しました。

この映画は、安田講堂事件の4か月後の1969年5月13日、東大教養部900番教室での出来事です。
ノーベル賞候補の小説家、三島由紀夫(当時44歳、東大卒で大蔵省へ)と全共闘の公開討論会が挙行され学生千人が集まりました。
TBSがその時の映像と音声を記録しており、ドキュメンタリー映画として最高の迫力でした。
当時の東大全共闘の闘士と三島由紀夫のサシの戦いで、「他者との関わり、存在、天皇論など」身体を張った論争で、場合によっては差し違える覚悟がほとばしる公開討論会・・・一語一語に迫力を込め、言葉を選び、壮烈な戦いでした。
天皇崇拝論者・右翼とみなされた三島由紀夫、その筋肉を鍛えた三島の姿を「近代ゴリラ」と揶揄(やゆ)し、千人の前で論破して三島に切腹をさせようとの企てで挑んだ全共闘。
若者を愛する三島由紀夫の強さと優しさ純粋さにほだされて、全共闘が立場を越えて共に戦うことを三島に申し出る公開討論会の意外な結末。
それに対して三島は笑顔で拒絶して、学生から大拍手で去る三島由紀夫・・・・小生はなんとも感動しました。
それから、1年後、三島由紀夫は自衛隊市ヶ谷駐屯地の総監室を占拠し、自衛隊員に決起(クーデター)を呼びかけ切腹をして果てます。 最期は、三島の側近の森田が介錯し、森田自身も自決します。
1年前の東大全共闘との討論会で予感させた三島由紀夫らしい終末でした。(45歳没)
50年前の戦中派(三島)と戦後派(全共闘)の昭和の壮絶な生き様のドラマでした。

後記
我々「団塊の世代」(1947⁻49年生れ)の共通の思い出・・・全共闘や三島由紀夫の自決、50年前のドキュメンタリー映画へ
胸を熱くして一人で没入しました。
三島由紀夫はスーパースター(ナルシスト)で、歌舞伎役者のような舞台(東大900番教室)を意識して、三島のなじみのTBSの記者、文芸春秋、平凡パンチの記者を教室に密やかに潜入させ、完全に記録をさせました。
三島由紀夫は死を覚悟して壇上に上がり後世の目を意識し、1年後に全国TV生放送の中、自説を叫び自決して果てました。
三島由紀夫は学徒動員の中、自分だけは生き延びた戦中派で、絶えず死に場所を求めていたようで、全共闘の革命へ身を挺する学生に共感していた節を感じます。
我々団塊の世代の魂を揺さぶる映画でした。