2021年5月12日 (水)
近所の散歩・・・東海道:山科~粟田口
日曜日、自宅のすぐ近くを通る東海道を歩きました。
スタートは山科の「五条別れの石碑」(東海道:旧三条通り)
昔、西国の大名の江戸へ参勤交代の行列が通り、京都の登る多くの商人、武士など千数百年の間、活躍した東海道です。
旧三条通り(東海道)と新三条通り(国道一号線)が交差します。
「緑の小径」・・昔、京阪電車の京津線(大津への線路)は国道の上を走っていました。
その線路跡が今や細長い公園になっています。
しかし、現在では野良猫の住処となっており、この小径(こみち)を歩くと数十匹の猫がウロウロしています。
天智天皇の広大な御陵です。
天智天皇・・・そう、百人一首の一番札「秋の田のかりほの・・・」の詠み手であります。
蘇我入鹿を倒した中大兄皇子その人であり、「大化の改新」の立役者であります。
都を大津京に遷都したため、御陵は京都・山科にあります。(拙宅の近所)
ミネルヴァ書房の本社(山科)
文系の人なら、かならず大学の参考書でお世話になった出版社です。
なつかしい名前だなあ(^^♪
「京津国道改良工事の碑」(昭和8年)
国道一号線の大津~京都間の凸凹道を大工事して、峠をなだらかにし拡幅して現状の基本形を作りました。
東海道(国道一号線)の家並みと竹やぶと山林です。
昔は牛車が米を積んで運びました。
平成9年に京都市営地下鉄の東西線が開通し京阪電車の京津線は地下を走るようになりました。(地下鉄と京阪電車の相互乗り入れ)
日ノ岡峠道の粟田口刑場跡
江戸時代、京都の東のはずれの粟田口(今は日ノ岡)に磔、獄門、火刑がありました。
なんか冷気が漂ってきそうです。
足早に東海道を歩みました。”(-“”-)”
蹴上(けあげ)にたどり着き、京都市営の水道局です。
京都で最初の浄水場で、明治45年に水道の供給を開始しました。
琵琶湖からの水運の木造船を大津から京都へ運ぶためのインクライン(傾斜の意)が上部を通っているトンネルです。
「ねじりまんぽ」(ねじれたトンネルの意)の表札です。
昔はトンネルの強度を増強するためにレンガをねじって工事をしました。
トンネルと越えると南禅寺のエリアです。
明治以降の豪華な別荘群があります。
コロナで工事中の別荘
「何有荘」(かゆうそう)・・・所有者は宝酒造の大宮さんから流転しオラクル(米)になりました。
金地院の東照宮です。(陽明門みたいですね)。
臨済宗南禅寺の三門
この三門の楼閣の上から石川五右衛門が「絶景かな!!」と言ったので有名です。
その後、石川五右衛門は賀茂川の三条河原で釜ゆでの刑に処せられます。
南禅寺の山内にある水道閣です。
ローマの遺跡のように見えますが、実は現役の水道閣です。
南禅寺の庫裏と本坊です。
南禅寺の山門の前にある湯豆腐で有名な「順正」です。
順正の大西さんは、登録文化財所有者の会の役員さんをして頂きお世話になっています。
琵琶湖疎水を設計した田辺朔郎先生(当時29歳)。
明治23年に5年の歳月をかけて、琵琶湖から京都への水路を作り、水運、水道水、水力発電の基礎を作りました。
水道記念館です。
京都三大事業の記念「水道、市電、幹線道路」を同時に行い、外債をつのり明治41-45年の難工事をへて完成しました。
80周年記念のモニュメント
疎水からの舟の終着点で港になっており、隣接して京都市営の岡崎動物園です。
前は無鄰菴(明治の元勲の山縣有朋公の別荘)
疎水べりに京都市立美術館、国立近代美術館がみえます。
今日のゴールの粟田神社
粟田口は、平安京の時代(1200年前)から、京の七口のひとつです。
つまり江戸へ向かう時の出入口になる交通・軍事上の要所になります。
粟田口をさらに10分間歩くと東海道53次の最終点の三条大橋となります。
後記
自宅から2時間の行程でした。
意外に早く到着しました。
緑と文化が豊かな歴史散歩となりました。
コロナとは無縁のリラックスした一人散歩でありました(*^-^*)