喜左衛門ブログ:President Blog

喜左衛門ブログ:President Blog

2021年5月17日 (月)

唐の国から命がけで日本に渡ってきた鑑真が我々にもたらしたもの・・・

LINEで送る

鑑真(688―763)と言えば、奈良の唐招提寺の坐像(国宝、乾漆木造)が有名ですね。
来日したのは聖徳太子の時代の百年後・・・・奈良時代に仏教が盛んになる一方、自分で僧侶を名乗る形ばかりの仏教熱が高まり、聖武天皇(701-756)は、中国(唐)から高僧を招き授戒をしてもらい本来の仏教の姿にしようとしました。
京都国立博物館でそんな企画展「鑑真和上と戒律の歩み」がありました。

地味な企画のはずですが、朝一番から大した人気で行列ができていました。(館内は空いていましたが・・・)


博物館の中ホールの真ん中に、鑑真の坐像が展示していました。(パンフレットより)

1300年前のお姿ですが、オーラが漂っていました。

両横に空海(774-835、真言宗の開祖)、叡尊(1201-1290、真言律宗の開祖)の木造が並んでいました。

鑑真は、唐の時代、江蘇省の揚州で生まれ僧籍を得て、有名な高僧となり大明寺の住職として4万人に授戒をしました。
742年、鑑真が54歳の時、日本の遣唐使より天皇からの招請を受け訪日を決意します。
それから、9年間、5度の渡航に挑戦して失敗し、過労で病気にかかり失明します。

6度目(754年)で屋久島に漂着し来日を果たします。

屋久島から九州・福岡県の太宰府の戒壇院で多くの人へ受戒を授け、翌年に奈良に入り、天皇・皇后や多くの人々へ授戒をします。

仏教の「戒律」は仏教徒の生活規律のことで、「戒」とは悟りを開くための行動規範で、「律」とは集団のおけるルールです。
五戒[殺、盗、淫、妄、酒]などを守ることを誓い10人の僧の前で授戒を受け、半月後に戒が守れたか懺悔を行い、厳しい自己反省(修業)をするという厳格なものです。

「モーゼの十戒」(出エジプト記)は、4つが神への誓い、6つが社会でのおきてですね。
宗教にとって戒律は非常に重要なものですね。

小生の興味は・・・「中国の高僧である鑑真(当時56歳)がすべてを投げうって、なぜ日本渡航を5回も失敗し失明してまでも実行したのか?」
「戒律」を日本にもたらし、鑑真の理想とする仏教(律宗)を日本に広めたという情熱があったからでしょうが、私には鑑真の思想、人格をもっと勉強せねば判りません。

鑑真が日本にやっと到着した時、すでに彼は65歳になっていました。
唐から、仏教関係(経典、解説本、仏舎利、仏像、仏画、仏具)、文化関係(お香、薬、銅銭、王義之などの書、様々に書物)、食品(澪、麺、菓子など)、そして、多くの僧侶と色々な分野の職人さんを連れてきました。
眼が見えぬのに11年間も日本のために尽くし、76歳で大往生しました。
多くの文化と仏教の戒律を日本へもたらした鑑真はあとに続く多くの人に敬慕され、空海や最澄そして、戒律の中興の祖を言われた叡尊らにより現在にまで続きます。

鑑真和上の故郷の江蘇省揚州の名花、瓊花(ケイカ)鑑真和上の没1200年忌で中国仏教会から贈られて鑑真の御影堂の前に咲いています。

後記
「中国の人は鑑真を知っているか?」
◆コロナ前に過去2千人ほどの中国経営者(CEO)が「近江商人の三方よし」を知るためにツカキスクエアに来訪されましたが、「鑑真さんを知っている人は?」と尋ねると8割の中国人は知っていました。
私も「三方よし」を広めるために洛陽、上海、寧波、台中へ7回、訪中しました!(^^)!

◆BC68年、インドから僧侶2人が経典をもって中国の洛陽(白馬寺)に来て漢訳をされ、仏教は中国全土、東アジア全域(漢字文化圏)へ広がりました。
中国一番の古刹とされる白馬寺には昔の10名ほどの高僧が祀っていました。
その中に鑑真和上が祀られ、鑑真の偉大さを思い知りました。
鑑真、空海、そして我が宗門(浄土真宗)の親鸞聖人、蓮如上人へ畏敬の念を感じます。

◆近江商人には「家訓」という戒律があります。
朝起き(午前3時半に起床)と倹約、互譲と融和の精神、三方よし(とりわけ世間よし)の実践、三分法の処世術などが厳しく叩き込まれます。
小生の3人の息子達も、朝6時半に弊社に出社するようになってきました。
近江商人の三方よしの実現のため、頑張ります!(^^)!