2021年6月4日 (金)
我々のご先祖さんの話
父、四郎(5代目・喜左衛門)
(明治43年~平成12年、91歳で没)
・母、志川(平成21年に93歳で没)は、やさしい優雅な女性でありました。
父は、近江八幡市の近江商人(尾賀亀)の家に生まれ、叔母(加代)の嫁ぎ先の塚本家(拙宅)へ養子となり、義母(加代)に厳しく鍛えらました。
京大を卒業後、家業(呉服卸)にいそしみましたが、兵隊に駆り出され6年半も中国を転戦し九死に一生を得て生還。
戦後、家業を再興するため朝3時に起床して働き、真面目・勤勉、質素倹約、仏教への帰依、社会への報恩に努めました。
私の人生にとって父はロールモデル(お手本)であり、実に厳しい師匠でありました。
3人の姉の末っ子長男である私は、幼いころ、週に一度、京都の店から本宅(五個荘)へ帰った父と一緒にお風呂に入り、八王子市に初出店した父と私(小3)の二人だけで富士五湖巡りしたのは本当に懐かしい思い出です。
多くのお取引先様、社員に敬愛された父は、息子(私)にとり今も偉大であります!(^^)!
祖父、喜蔵(4代目・喜左衛門)
(明治7年~昭和35年、86歳で没)
・祖母、加代(昭和48年に92歳で没)
やり手の創業者の元へ養子で入った祖父は良寛さんとお酒が好きな心根の優しい人でした。
商売の手腕が乏しい祖父に対して、祖母(加代)は男勝りのしっかりもので剛腕を振るい、先代の逝去、関東大震災、世界不況、第2次大戦の荒波を乗り越え次代(私の父)へつなぎました。
祖父は急に雨が降ると小学校に傘を届けてくれ、白い長いヒゲの祖父は「サンタさんが来た!」と悪ガキにも人気者でした。村のお葬式があると、どんな寂しい葬儀も必ず参列して村の人から慕われていました。
祖母(加代)は、早朝起床、読経、行儀作法、友達付き合いなど実に細かくて厳しく、小生の生活習慣(朝3時半起床、懸命に働く)の基本は祖母のスパルタ教育のせいでしょうね。
曽祖父、創業者、3代目・喜左衛門
(嘉永2年~大正11年、72歳で没)
丁稚奉公の後、慶応3年に独立創業、明治の発展する日本の成長とともに塚本喜左衛門商店(後の塚喜商事)を発展させました。一代で現在の本社地に店を構え、郷里である五個荘に本宅を構え大規模造園し蔵を建て、近江商人としての基礎を作りました。
立身出世に意欲が強く、報恩国家・三方よしを実践・・・まさに“近江商人の原型”のような先祖です。
創業者(曽祖父)の肖像画の前で、祖母から先祖の苦労話、危機の時の対処、調子に乗って有頂天で失敗した話・・・成功・失敗・美談をまじえて過去の先祖の体験を子孫に熱く語り継ぐのです。
曾祖父の没後百年たちますが、創業者の威光は子孫の中で輝いています
でも、子供心に失敗するとかくも赤裸々にいつまでも語られるのだと思っていました(>_<)
初代、2代目の喜左衛門
百姓しながら、近江の地場産業である麻織物の仲買をしていました。
五個荘の人達は近江商人に憧れ、初代、2代目の半農半層から、次代の3代目喜左衛門(創業者。曾祖父)が五個荘から雄飛していきました。
大和郡山の柳沢藩の飛び地(領地)であった五個荘のお隣村に安土城址があり、近江八幡は豊臣秀次の居城があり、楽市楽座の気風が残っていました。
かくして、江戸時代から明治維新にかけて五個荘、近江八幡などから、多くの近江商人が巣立っていきました。