喜左衛門ブログ:President Blog

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2022年9月12日 (月)

九兵衛さんと六兵衛さん

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真っ赤な巨大な金属のオブジェを制作するモダンアーティストの九兵衛さん。
清水焼の伝統を受け継ぐ陶芸家である7代目の清水六兵衛さん、
この二人が同じ人物とは知りませんでした・・・
まるでジキル氏とハイド氏が同じ人物だったようなものです(@_@)

京都国立近代美術館でこんな展覧会がありました。

毎日の早朝散歩のコースで、平安神宮の大鳥居の前に国立近代美術館があります。

京都は小生の住んでいる粟田口の「粟田焼」が江戸時代は陶器で有名でした。
ところが「清水焼」がだんだんと勢力をつけのし上がってくるのです。
その立役者が清水六兵衛さんの六兵衛窯なのです(^_-)-☆
初代からブログの主役7代目に至る系譜を追いかけましょう・・・

◆まずは、江戸時代の初代・清水六兵衛さん(1738-1799)

才能のある初代は、姓の清水を「しみず」を「きよみず」と読ませ、妙法院の眞人法親王に気に入られ、円山応挙や呉春とも付き合い、文人趣味の陶芸で時代の寵児となっていきます。
◆2代目の六兵衛さん(1790―1860)は初代が52歳の折にできた子で、9歳で父を亡くし大変な苦労をしながら、奔放な作風で、新潟の長岡藩の藩主に可愛がられ基礎と築きました。
◆3代目(1820-1883)は、京都の五条坂に登り窯を買い、やっと窯元となりました。

天皇家、井伊直弼(大老)、一橋慶喜(将軍)などから注文を受け老舗窯として歩みます。
ところが明治維新、都は京都から東京に移ります。
3代目は、清水焼の特徴を生かして。海外への輸出向けの制作を果敢に行います。
そして有田焼に対抗して、清水焼の「六兵衛様」の世評を受けます。
なんとすさましい起業家精神でしょうか・・・
◆4代目(1848-1920)は、世界恐慌など苦難の時代を過ごすが、浅井忠や神坂雪佳らの芸術家と交友し、京焼の復活に心を砕き、画家の富岡鉄斎との共作で制作をしました。
作風は温雅で伝統に回帰した茶器を好んで作りました。
◆5代目(1875-1959)は、明治の後期から活躍し、琳派、仁清風の伝統的な作風で陶芸界の重鎮として貢献しました。
◆6代目(1901-1980)は京都市立芸術大学で竹内栖鳳や山本春挙に日本画を学ぶ

軍隊へ兵役・復員してから父に師事して陶芸に打ち込み、装飾技法を編み出し昭和を代表する陶芸家となり1962年に日本芸術院会員に任命されました。
1980年に六兵衛歴代展の開幕の挨拶に中に倒れ急死(78歳没)

古稀(1971)の作品
富士鶴

紅葉の画

いよいよ当ブログの主役です。
◆7代目(1922-2006)は名古屋生まれで建築をめざし、第2次大戦へ応召し戦地へ

復員後、東京芸術大学で彫金を学ぶ
1951年(29歳)6代目六兵衛に見込まれ養子となり、陶芸の道に進む
1966年(44歳)に九兵衛と名乗り、アルミを使った金属彫刻家として邁進する
1980年(58歳)に父の急死により、7代目を襲名し陶芸に復帰
2000年(78歳)に息子に代を譲り、彫刻制作に専念
2006年に惜しまれつつ逝去(84歳没)
なんとも野心と希望、才気ほとばしる人生ではありませんか!!

九兵衛さんの金属のオブジェは京都市内に沢山あります。

京都駅のシンボル「朱甲舞」(しゅこうまい、1997)

京都文化博物館にある朱装(しゅそう、1990)

みやこめっせにある「朱鳥舞」(しゅちょうまい、1996)

京都市民にとり、お馴染みのシンボルばかりです。

こんな作品もあります。


伝統工芸とモダンアートのハザマで苦しみ、戦い、昇華していった九兵衛さん(=7代目六兵衛さん)の人生は素晴らしい・・・!(^^)!

ちなみに8代目六兵衛さん(1964―)58歳

早稲田大学理工学部卒、京都府立陶工訓練校で学ぶ
1983年に朝日陶芸展グランプリを獲り、前衛的な陶芸作家として鮮烈にデビュー
2000年(36歳)に六兵衛を襲名
陶芸の新しい風の重鎮として活躍中

後記
時代の波に乗り、世評の期待にあがない、自分の生き方を貫く・・・伝統工芸の世界では稀に見る強靭な生き方です。
代々が必死の苦闘の中で、陶芸を通じで自己表現をする。
伝統工芸とは、かくも厳しい生き方であったかと辛辣な勉強でありました・・・・