2022年11月11日 (金)
国宝「喜左衛門」
国宝「喜左衛門」が展示されるというので、見学に行きました。
場所は京都国立博物館(京博)です。
あっ、看板があった。
テーマは、京(みやこ)に生きる文化「茶の湯」
京博に入館すると・・・・
◆中国から禅宗と茶を初めて持ち帰った栄西(1141-1215. 臨済宗の祖)が登場しました。
当時は茶の道具はすべて唐物、つまり中国製でありました。
窯変天目(国宝)、茶碗の中に夜空に輝く星のように宇宙があります。
玳皮天目(国宝)、茶碗は玳瑁(タイマイ、大亀の一種)のようなつやと模様があります。
天目茶碗は、唐物が第一で珍重されました。
◆時代は室町から戦国時代
堺商人(屋号、魚屋・ととや)から茶道の聖人となった千利休(1522-1591)
信長が堺を直轄地とし、利休は茶堂として召し抱えられました(1569)。
本能寺のあと、山崎の合戦(1582)の後は秀吉に仕えました。
翌年、山崎の地に利休作の唯一の茶室である待庵(国宝)を完成しました。
待庵は、拙宅の大山崎の山荘「生々居」から歩いて5分間の地にあります。
利休は、1591年に69歳で秀吉に切腹を命じられ果てます。
かくして、千利休は、三千家(表千家、裏千家、武者小路千家)となり、四百数十年栄えます。
◆天下人となった豊臣秀吉(1537-1598)
秀吉は人と同じ様にふるまうのを嫌う傾奇(かぶき)者でした。
何回か開いた仮装茶会は参加する武将に身分の低い者の格好をしてくるように通達しました。 秀吉と家康は瓜売り、伊達政宗は山伏に扮した。
秀吉は茶の湯を利休に学び、和歌、禅、儒学などを勉強しました。
秀吉はお茶や能楽に凝りました。
フィリピンの尿壺と言われた「ルソンの壺」に価値づけをして高価な茶道具として売買され、朝鮮のメシ碗の雑器も大した価値を生んできます。
秀吉の「動物的なカンと権力欲」と、利休の「研ぎ澄まされた感性とプライド」はやがて激突し、利休を切腹させて決着を生んだのでしょう。
◆利休は、「わび茶」の新しい世界観を打ち出します。
利休の弟子の中の筆頭はやはり古田織部(1543-1615)だと思います。
古田織部は武将ですが、秀吉、家康の茶堂、徳川秀忠、家光の茶の湯指南役を務めました。
織部は利休のあと茶器、建築、作庭に腕を振るいました。
大坂夏の陣は徳川方につき、武功を挙げましたが豊臣と内通していると疑いを掛けられ自刃しました。(1615、72歳没)
古田織部は、「へうげもの」(ひょうげもの)といわれた茶器を好みました。
◆これが大井戸茶碗、喜左衛門です。
あれっ、看板でみたあれや!
そうです、今回の京都国立博物館の「茶の湯」の展示は、非常に力が入っていて、国宝や重文が多数出品されていますが、「喜左衛門」が文字通り看板役者なのです。
井戸茶碗は15~16世紀に朝鮮で焼かれた陶器で庶民の雑器として使われたものが多く、桃山時代にわび茶の好みに合い抹茶茶碗として珍重されました。
竹田喜左衛門が所有していたから銘がついたと言われます。
江戸時代、伊藤若冲の描いた売茶翁
味わいのある掛け軸ですねぇ・・
◆小生は茶道具には疎いのですが、すごいコレクターがおられます。
野村徳七さん(野村証券の創業者、1878-1945)の「練り上げ志野茶碗」
住友吉左衛門さん(友純、15代目当主、1865-1926)の「紅葉呉喜茶碗」
小生の自宅のお隣さんで仲の良い伊藤勝之さん(ヤング開発)の「唐物文琳茶入」
世の中には身近な方が、すごい茶道具をもっているんだ(@_@)
興味のある方は、是非、京都国立博物館に行ってください。
【特別展】 京(みやこ)に生きる文化 茶の湯
会期:2022(令和4)年10月8日(土)~12月4日(日)(休館日・月曜日)
「喜左衛門」後記
三越日本橋本店で、小生の名刺を渡すと三越の社員さんはニンマリして非常にうれしそうな顔をされます。
実は、三越さんの社員食堂に行くと「キザエモン」と看板が上がっています。
三越さんの社員さんは社食に行くときは「キザエモンに行ってきます」と声を掛けます。
お店が売り出しで混雑しているのにお客様を前に「お腹がすきましたから社員食堂に行きます」とは遠慮して言えないので暗号「キザエモン」があるのです。
トイレの暗号でなくてよかった・・・・