喜左衛門ブログ:President Blog

喜左衛門ブログ:President Blog

2024年2月13日 (火)

素晴らしかった「藤田嗣治展―心の旅路をたどるー」

LINEで送る

大山崎山荘美術館(京都府大山崎町)にて「藤田嗣治展」が開催されています。(~2月25日まで)

大山崎山荘は昭和初期に加賀正太郎が建築した山荘で、後年、ビール王と言われた山本為三郎が引き受け、現在、アサヒビールの美術館として運営されています。
加賀正太郎(1888-1954)と藤田嗣治(1886-1986)は同じ時代に生きました。
加賀正太郎は若い頃、加賀証券の御曹司として生まれ、東京商大(現一橋大学)を卒業後、欧州で勉強し、帰国してから色々な事業、ウィスキ―を始めた竹鶴政孝(まっさん、ニッカ)に投資、一方、蘭の栽培、ゴルフ場の建設など多くの新規事業をしました。
一方、藤田嗣治は陸軍軍医(後に総監)を父とし、母は4歳の時に死別しました。
藤田は少年期から画家を夢見て絵画とフランス語を勉強し、東京美術学校西洋画科(現東京芸大)に学び、27歳でパリへ渡欧します。
加賀正太郎と藤田嗣治、どこか似た者同士の面があり、大山崎山荘にて「藤田嗣治の心の旅路をたどる展」が開催されたことは、実に興趣深いものを感じます。

さて藤田嗣治は1913年、27歳でパリへ船で渡りました。

1917年、彼はパリで知り合った画家フェルナンド・バレーと結婚します。
1919年、第1次世界大戦が終結し、美術界は復活しエコール・ド・パリ(出身国や画風も異なる芸術家の熱狂的なパリ派)の一人として藤田はパリの寵児となります。
乳白色の下地に細い毛筆で描く線が大変な人気を博します。
1929年、ユキ(リウシュー・バドゥ―)と再婚します。
藤田嗣治の肖像写真(1930年)

丁度、世界恐慌の年、パリの美術界も低迷し、4人目の妻、マドレーヌと共に中南米に旅行し日本に戻り画室のある家を建てます。
「吾が画室」(1936年)

ところが妻マドレーヌが29歳の若さで急逝します、
1937年に日中戦争が勃発し、政府から依頼を受けて国に協力して戦争の絵画を描きます。
しかし敗戦後、藤田は国策協力者として弾劾されます。

1947年に傷心の藤田は、単身、羽田からニューヨークに行きここで創作活動をします。
新しい妻(5番目)、君代とともに新天地で暮らし始めます。
「美しいスペイン女」(1929年)

ニューヨークの滞在中に描いたこの絵は欧州のルネッサンスを思わせるような背景ですね。
1950年、待ちに待ったフランスへの入国許可がおりると藤田はNYからパリに戻ります。
ここで彼は20数歳下の妻、君代のために手製の額に入った作品群を制作します。
「朝の買い物」(1962)

藤田は子供がいなかったので、まるで自分の娘のような少女の絵画を沢山描きました。
シャンパーニュ地方のランスを終の棲家と定めた藤田は、1965年にランスに小さな礼拝堂を設計・デザインして壁画や調度品などに制作に没頭します。
1968年、81歳で藤田は永眠し、君代夫人ともにこの礼拝堂に眠っています。
藤田嗣治と同じ世代のマルク・シャガール(1887―1985)はロシアに生まれ、フランスに帰化して結婚を繰り返し98歳で逝去しました。
多感な芸術家の人生ですねぇ・・・

私の収蔵品に藤田嗣治の絵画がひとつだけあります。
「ヴェールをかぶる女性」

藤田嗣治の素描(デッサン)で毛筆と墨で書かれています。
彼は、「素描とは線で描くもので、日本人は昔から最も得意とするもので、私でさえ欧米人に立ち向かって必ず勝つものと信じている。 しかも外人が使用する鉛筆やペンは捨て、先祖伝来の毛筆を使って戦ったならという真剣さで研鑽した。」と語っています。
帰化してフランス人となり、洗礼を受けレオナール・フジタとなった藤田嗣治の告白に、私は藤田嗣治の日本人としての叫びを感じます。

大山崎山荘の隣(元は同じ敷地)に加賀正太郎が建てた「生々居」(築90年)があります。

2015年に縁あって加賀家から小生は譲り受けました。
藤田嗣治と同じ時代を生きた加賀正太郎の息吹を感じる山荘です。



春になると桜が咲き誇り、裏山の天王山(秀吉と光秀の合戦場)は気持ちよく、近所のすぐ近くには木津川と宇治川の「背割り堤」は桜の名所(全国3位)として有名です。
またお遊びにきてください!(^^)!