2024年9月2日 (月)
幻の日本最大(1945年)の百貨店「三中井百貨店」勉強会
8月下旬にNPO三方よし研究所の勉強会と納涼懇親会が開催されました。
30名ほどのメンバーが滋賀県近江八幡市に集まりました。
勉強会の冒頭にNPO会長(小生)挨拶
「私の生まれ故郷である五個荘金堂町(世帯数205軒の小さな集落)から戦前に巨大な三中井百貨店が発足し、みるみる東洋一の百貨店へ発展し敗戦で消滅しました。
三中井一族は帰郷しましたが、この話題は故郷ではタブーでありました。
私の生まれる12年前の悲劇について、今日、解き明かされようとしています。」
会員の藤吉さんが、彦根市の三中井京菓子店へ取材して研究し今日は講師役です。
中江勝次郎(1872-1944、72歳で没)は、33歳で韓国へ渡り大邱にて中江4兄弟(勝次郎、久次郎、富十郎、準五郎)で、三中井商店を設立しました。
・・・三中井のいわれは、中江3兄弟と出資者の奥井からとった。西村久次郎は養子に出た・・・
1924年に勝次郎はアメリカ視察に出かけ百貨店経営を学び、1933年に三中井百貨店へ改称して満韓中へ大発展を遂げました。
1945年には五個荘金堂に総本部、京都本部を置きソウル本店(地上6階、地下1階)がある朝鮮に12店舗、満州3店舗、中国3店舗、仕入部は大阪・東京としました。
社員数4000人、年間売上1億円、これは東洋一で三越を抜く売上でした。
勝次郎は事業意欲旺盛で、久次郎は経理担当で「シブ久」と言われる倹約家、富十郎は豪放磊落で一般客獲得に熱心でした。
外商活動に熱心で、富裕層だけでなく陸軍(関東軍)に接近し、軍服の巨額な納品を引き受け、売り上げ規模は急激に拡大しました。
しかし、1945年の太平洋戦争の敗戦によりすべてを失い、中江一族は五個荘金堂町へ帰郷しました。
多くの人材があり残余の財産もあったのになぜ近江商人として復活しなかったのか?
非常に疑問と謎が残る三中井の戦後の消滅です。
中江勝次郎の後継者(養子)の戦前からの放蕩が原因ともいわれています。
三中井屋敷の床の間の掛け軸に「おごれるものは久しからずや」がありました。
平清盛のような勝次郎、平家の公達のような次代の経営者・・・時代の波にさらわれ滅亡した三中井、平家の没落のようなはかなさを小生は感じるのです。
これから大いに議論となり、末永先生(同志社大学名誉教授)のコメントがあり、次回の勉強会(末永先生の講演会)に結論は持ち越しになりました。
いよいよ納涼懇親会です。
北野加代子副理事長の乾杯です。
和気あいあいで20数年来の仲間との懇親会・・・
左から、末永先生、北野・中澤両副理事長
左から、平田理事、藤吉さん(本日の講師)、岩根専務理事
あちこちで三中井百貨店の成功と悲劇の謎解き談義がありました。
前川先生(老舗学会)、駒井さん、新海さん
小林さん(チョーギン、小林吟右衛門のご子孫)
右は高橋先生(滋賀県立大学の教授)
いよいよ中締めのご挨拶は中澤副理事長
今日は実りの多い納涼会でした。
学びと教訓に満ちた勉強会で、講師の藤吉さん、有難うございました。