2024年9月4日 (水)
夏の日の思い出・・・欧州(オーストリア)の旅、その1
今年のお盆休みに家内と7泊8日の旅に出かけました。
羽田空港からルフトハンザに乗って一路、フランクフルトからミュンヘンへ・・
富士山が見えます。
ドイツのミュンヘン空港にあるヒルトンホテルに泊まりました。
ドイツの100万人以上の大都市は、ベルリン367万人、ハンブルグ185万人、ミュンヘン107万人の3つです。ミュンヘンはドイツの南の大都市ですね。
さてバスに乗って、さらに登山列車でドイツの最高峰ツーク・シュビッツエ山に登りました。
さらにロープウエィで山頂へ
山の麓から直角(?)のような鋭角で山頂(標高3000メーター)へ挑戦です。
真夏というのに雪が残ります。
山頂の展望台です。
岩の断層が斜めに走っています。
ロープウエイが雲間を抜けて急スピードでオーストリアに向けて走ります。
オーストリアからツーク・シュビッツエ山を望みます。
バス・ツアーのはじまり、はじまり・・・
オーストリアは人口900万人、首都はウィーンです。
10万人以上の都市は・・・
① ウイーン、160万人
② グラーツ、24万人
③ リンツ、21万人
④ ザルツブルグ、15万人
⑤ インスブルック、12万人
今回の目的は、オーストリア西部のチロル州の州都のインスブルックと、岩塩の宝庫ザルツブルク州(ザルツは塩の意味)です。
言語はドイツ語です。
いよいよハプスブルク家のゆかりのインスブルックにきました。
インスブルックの街の果てにアルプスの山々が見えます。
凱旋門にて家内と小生。マリア・テレージアが息子レオポルドの結婚を祝して建設。
しかし、マリアの最愛の夫フランツ1世が逝去したため、門の片面には「生と幸福」反対の面には「死と悲しみ」のモチーフが刻まれています。
マリア・テレージア通りにアンナ記念塔があります。
◆オーストリア大公は代々、ハプスブルク家であり、これについて少し語ります。
11世紀頃(日本では平安時代末期)、スイスの地方豪族として発足
13世紀末にその本拠地をオーストリアに移し、マキシミリアン1世(1486-1519)が神聖ローマ皇帝となり、ハプスブルク家の興隆の基礎を作りました。
マキシミリアン1世が建設した宮廷協会
等身大のブロンズ像が棺を守ります。
左はインスブルック王宮(マキシミリアン1世が拡張、マリア・テレージアによってロココ風のウィーン様式な改装されました。)
大聖堂、チロルを代表するバロック建築
フレスコ画の天井はバロックの巨匠アザム兄弟の作品
クラーナハの「救える聖母」がほほえむ
◆ハプスブルク家はオーストリアを本拠にして、ボヘミアン(ポーランドからチェコ)、ハンガリー、スペイン、ポルトガル、さらにメキシコ、イタリアなどを版図に大帝国を作りました。
マリーテレージア(1717―1780)は女帝(正確には皇后)として辣腕を振るい、多くの子供を産み、政略結婚に熱心でした。
末娘マリーアントワネット(1755-93)がフランスのブルボン家のルイ16世と結婚し、フランス革命で断首台の露となりました。
オーストリアはドイツの属国となり、第1次大戦の敗戦し1918年にオーストリアは共和制となり、ハプスブルク家の皇帝は廃止となりました。
イン川、インスブルックスの原語は、「イン川の橋」と言う意味
黄金の小屋根
張り出した窓(エルカー)の上の黄金の小屋根は、皇帝のマキシミリアン1世が広場の行事を建築するために作りました。
エルカーの下のレリーフに色々な人物が彫られています、
市の塔(高さ51メーター)
観光案内をして頂いたガイドさん
手のひらサイズの牛カツレツ
料理はドイツとよく似て、ソーセージ、ジャガイモ、豚肉、牛肉で分量が多くて大味で小生はやや閉口でありました”(-“”-)”
夜は更けてインスブルックの街は盛り上がります・・・(^^♪
次はチロルからザルツブルグへ向かいます・・・・
ブログの「その2」をお楽しみに(^_-)-☆